(仕事に対する)淡白宣言

9月、帰省する前、院へ進むと決めるまでの少し前までは、ぼんやりと研究は向いていないからと、消去法的に就職したほうがいいなあと思っていた。 友人Kと進路や社会人の生活について話していた。

また、友人たちと高専で後輩に進路の話をしたからか(この話もいずれしたい)、それとも間近に迫った大学卒業と大学院進学という節目からか、最近友人Bと進路について話すことがあった。

なぜ、この二つの話を持ち出したか。 というのも、同じ話をしていたからである。 中身は社会人としてどのように生活していきたいかという願望について、である。

既に就職した高専の同期などの社会人から見たら鼻で笑われるような理想論なのかもしれない。 けれでも私が社会人の生活としてどのようなことを夢見てきたのか。 いずれ忘れていくのであろうから、忘れないうちにこの話について書いておこうと思う。

成年の主張

私の考えの要旨は以下の通りである。

私のしたいことが仕事になりえないと思い込んでいるフシがある。 多分私は仕事だけの生活では満足しない。

だから、一刻も早く社会人になることで社会人としての生活習慣に早く慣らして、趣味と仕事とを両立できる体力であるとか気力であるとかを鍛えていくべきなのではないか。

……と思ったのは、私は未だに手を付けられてはいないものの、楽器を弾けるようになりたいし、物書きをしてみたいし、趣味でプログラムも書きたい。

ただ、人生の大半は「職業: 社会人」として生きていくことを考えると、仕事と折り合いを付けつつも、持続可能な趣味との付き合い方を会得する必要があると思ったのである。

反応

先程冒頭で、2人の友人K、Bに話したと書いた。

また、忘れていくのであろうから、忘れないうちにその話について書いておこうと思う、とも書いた。

だから、彼ら2人の反応も書いておいたほうがよいような気がする。

KもBも活発な人である。

Kは物書きをしていて、私は彼とゲームを作ろうとしていたこともある。 今年就職するらしい。

Bは大学のある街の大きなイベントに携わっている。 昔は文化祭で幹部を共にやったり、FMを出したりしていた。

KもBも、私の話を肯定してくれた。 Kは趣味に邁進している生活だ。 彼と交した言葉1つ1つを覚えてはいないのだが、後に趣味に邁進していく決意を持ったらしい。 Bは我々のことを活発であるとし、社会人だけをするだけでは我々は満足しないのではないかと同意してくれた。

おわりに

Bからは、この話をする前に、成し遂げられないことを目標として掲げるべきだ、学部卒の人と比べて修士2年はハンデのようなものであるから、この2年でみんなができないことを経験すべきだ、という話をしてくれた。 とてもおもしろい話だった。

でも、聞きながら思った。

成し遂げられないことを目標として掲げることに違和感がある。 私には向上心がない。権力欲もない。 であるから、社会がどうこうということに興味がさほどなく、私の主張は社会に貢献するかどうかという視点は全くといっていいほどに欠けている。

しかしながら、Bは社会にどのように貢献するかという話をしていて(この視点を持っていることを私は心から尊敬する)、その文脈で話したつもりではないにも関わらず、私の主張が彼の文脈でも通用しえたなと昨日ふと思ったのであった。 宮台真司は『14歳からの社会学』で社会活動を推奨していたけれども、私の言っていた「趣味」というのは別に「社会への貢献」と入れ変えても成立しうる文である*1

おわりにと言っておきつつ、全然締まらないことを徹夜由来の眠気であることにして、ここらへんで締めておこう。

*1:これは今思ったのだが、これが東浩紀のいう「誤配」の一例なのだろうか。